光待つ夜 前編
総司が夜番の時には隊の幹部のうち屯所にいる誰かが夜に一度、
セイの様子を見に来ることになっている。
生まれるにはまだ少しあるとはいえ、やはり何かと気がかりなのだ。
「神谷?」
雨戸の前で声をかけた藤堂が首を傾げる。
普段であればこの時間に誰かが自分の様子を見にくる事を承知しているセイが、
すぐに雨戸を開けるはずだ。
「神谷? どうかした?」
再び、今度は少し大きめの声をかける。
けれど中からは何の反応も無い。
まさか中で何か異変でも、と不安を感じながら玄関に回り戸に手をかける。
しっかりもののセイの事、いつもきちんと戸締りされている戸がスルリと開いた。
いよいよ普通では無いと藤堂は部屋の中に走りこんだ。
「神谷っ!」
がらんと冷たい室内に人の気配は無い。
ぐるりと見回しても争った跡は無く、誰かが無理矢理連れ去った形跡も無い。
部屋の中には一組の布団が敷かれており、家出とも思われない。
狭い家だ。
隠れる場所などどこにも無い。
普段の生活感を残したままでセイの姿だけが忽然と消えたように見えて
藤堂は困惑した。
けれどセイがいないのは確かな事実なのだ。
くるりと踵を返すと屯所の幹部棟へ向かって全力で走り出した。
「土方さんっ!」
パシンッと音を立てて障子を開いた藤堂が駆け込んできた。
寝る前の一時、もう一仕事片付けてしまうかそれとも久々に句作をしようかと
茶を啜っていた土方は危うく湯飲みを取り落としかけた。
「驚かすんじゃねぇ、平助っ!」
苛立ち紛れに叫んだ声より数倍大きな声が屯所内に響き渡った。
「土方さんっ! 神谷がどこにも居ないっ!!」
それまで大きな物音こそしてはいなかったが、確かに人の活動する気配を
漂わせていた屯所がその瞬間完全に動きを止めた。
凍りついたと言っても良いかもしれない。
たとえ深夜や明け方といえど、どこかで誰かが起きていて完全なる無音に
なる事などない場所が、この瞬間確かに全ての物音が絶え、
圧力さえ感じられる静寂が訪れた。
と、次に走ったのは山が動いたかのような怒涛の足音と叫び声。
土方のいる副長室に雪崩を打って男達が集まってくる。
それぞれが口々に何かを叫んでいるが、問いたい内容は誰もが同じで。
「ぃやかましいっ! 静かにしねぇかっ!!」
土方の怒声でようやく皆が口を閉ざした。
藤堂から詳細を聞きながら個人的な問題で隊を動かして良いものかと
逡巡する土方を、じりじりとした苛立ちを乗せて隊士達が見つめてくる。
「ここ数日、神谷らしくもなく塞いでおったからのぅ」
けれど井上の呟きを聞いて土方も心を決めた。
「何があったのか判らねぇが、放っておく訳にもいかねえだろうな。
明日の巡察以外の隊に捜索させるか・・・」
土方の言葉にも関わらず、翌日の巡察当番の連中も捜索隊に加わる気が
満々という顔をしている。
何かと言っては神谷を構いたがる連中に向けて、仕事が最優先だ、と
怒鳴ろうとしたがその前に原田が口を開いた。
「屯所に残ったところでどうせ眠れっこねぇんだぜ。これも鍛錬の一環と考えりゃ
別に悪い事じゃないだろうさ」
隣で頷いている斎藤とふたり、明日の午前と午後の巡察当番のはずだ。
言うまでも無く神谷捜索に加わるとはっきり顔に書いてある。
土方は溜息を吐いた。
「気持ちはわからないでもねぇが、屯所を空にする訳にはいかないだろう。
あの体だ、そう遠くには行ってねぇはずだ。とりあえず・・・源さんと新八、
済まねぇが配下を連れてざっと近所を見てきてくれ。
他の連中は部屋へ戻って休め」
土方の言葉に不満そうな顔をする他の隊士達だったが、しぶしぶ部屋へと
戻っていった。
「じゃ、俺は総司を捕まえて巡察を代わるよ」
夫である総司は今頃何も知らず、どこかの巡察路上にいるだろう。
いずれにしても総司に知らせないわけにはいかないと、藤堂が部屋を
出て行くのを土方は黙って見送った。
同様にその背を見ていた斎藤達他の幹部も立ち上がる。
「明日に支障の無い程度に、その辺を見てくるぜ」
止めても無駄だとばかりに原田が部屋を後にすると、他の者も続いた。
近藤が妾宅に行っていて良かったと土方は心から思う。
きっとあの情に厚い男がいれば、隊のほとんどを動かす勢いで先頭に立ち
セイの捜索を始めた事だろう。
たとえ会津公や一橋公が背後についていようと、セイ個人は
幹部の妻でしか無いのだ。
それを寄ってたかってこの深夜に捜索なんぞできるものか。
何があったのかは知らないが、見つかったなら夫婦揃えてぎゅうぎゅうに
締め上げてやろうと土方は拳を握り締めた。
「なぁ・・・神谷・・・」
西本願寺からほど近い小川の辺にセイは座り込んでいた。
その背後に立ち、ずっと黙ったままだった男が口を開いた。
「そろそろ帰らないか? 夜中の川風は冷えるぞ?」
「すみません、山口さん。もう少ししたら戻りますから、先に帰っててください」
頑なに川面を見つめたままでセイは振り向こうともしない。
小さな溜息をついて、山口はもう一度声をかける。
「沖田先生だって心配するだろう?」
「・・・・・・・・・」
ピクリとセイの肩が揺れたが、答えようとはしない。
ここ数日、セイの様子がどこかおかしいと思っていたのは一番隊の隊士達も
同様だった。
何か、どこか不安定な様子が皆気にかかっていたのだ。
「なぁ・・・」
春の宵とは言え川風は冷たい。
このままでは体に障りかねないと業を煮やして山口がセイの肩に手をかけた。
「セイッ!!」
耳慣れた声が川面に反響した。
激しい足音と共に刃の鞘走る音が続き、月の光を弾いた白刃が振り下ろされる。
山口へと。
――― ガキッ!!
セイは勿論山口さえも予想しなかった事に反応できずに固まったままだったが、
振り下ろされた総司の刃を受け止めたものがあった。
「な、ぜ、止めるんです?」
ぐぐっと総司が腕に力を込めた。
「頭、を、冷やせっ・・・こっの馬鹿者がっ!」
滅多に出す事のない怒声と共に力の込められた刃を受け流し、
斎藤が総司の腹を蹴りつけた。
思わぬ攻撃に総司の身が吹き飛ぶ。
と同時に山口がペタリと地に崩折れた。
斎藤に蹴られた腹を押さえながら総司が山口を睨みつける。
「こんな時間にセイを連れ出したんですよ? どうして庇うんですか?」
視線は山口に据えたままだが、抗議の言葉は斎藤に向いている。
「山口。どういう事だ?」
総司には答えず、斎藤が山口に問いかけた。
「あ、あ・・・はい・・・」
総司に斬りかかられた驚きに一瞬放心していた山口だったが、
斎藤の援護のおかげかようやく平静を取り戻した。
「昼過ぎに副長に用を頼まれて他出していたのですが、それに時間が
かかってしまって・・・夜道を屯所に向かっていたら、神谷がふらふらと
歩いていたんです。まさか放ってもおけず、付いていたのですが・・・」
言葉を選びながら、けれど簡潔に説明する山口の言葉に偽りは感じられない。
ちらりと見やった総司が何かを思い出したようで斎藤が視線で問う。
「ええ、確かにそうです。今日の用は時間がかかるから、巡察には
間に合わないだろうと土方さんに言われていました」
「・・・つまり、山口が神谷を連れ出したわけではないと納得したんだな」
相変わらず無表情ながら、その声音は総司の冷静さを欠いた行動を非難している。
「・・・はい、すみませんでした」
斎藤の介入がなければ、誤解で部下を斬り殺していたのだ。
総司の身が小さくなった。
「神谷?」
もはや総司などに興味は無いとばかりに斎藤がセイを振り返った。
同時に他の男達もそちらに視線を向ける。
けれどセイは俯いたままで、その表情は伺えない。
「お前はこんな時間に、こんな場所で何をしているんだ?」
声音から怒気を滑り落とした斎藤の言葉にもセイは答えを返さない。
何か知っているかと山口に目で問うても首を振るだけだ。
斎藤の横を総司が通り過ぎてセイの前に立つ。
無言のままでその腕を引き、腰を上げさせると斎藤にその身を押し付けた。
「おい、乱暴なことをするな」
出産間近い妊婦なのだ。
男としては、どれほど丁寧に扱っても不安に感じるものを。
「構いません。この人が屯所を抜け出した事で、皆さんにどれほどの迷惑を
かけた事か」
セイが唇を噛み締めた。
「引き摺ってでも連れて帰ってください」
感情を殺した総司の言葉にセイが顔を上げた。
その瞳の中に浮かんでいる、すがるような感情を総司は黙殺する。
「あんたは、どうするんだ」
「巡察中です。隊務に戻ります」
斎藤の問いに一言を投げ捨てて、総司が背中を向け闇の中に消えてゆく。
再び俯いたセイの肩を支え屯所に足を向けた斎藤は、その細い肩が
ひどく冷え切っている事に気づいた。
「とにかくあんたは今日は休め。すっかり体が冷え切っている」
自分の羽織を脱いで掛けてくれた斎藤の言葉に、セイは小さく頷いた。
屯所に間借りするようになった直後、総司が仕事中に怪我をした。
浪士たちとの斬りあいの最中、逃げようとした浪士が逃走路上で
腰を抜かしたように動けずにいた子供を邪魔だとばかりに斬り捨てようとした。
それをとっさに庇った総司が肩口を浅く斬りつけられたのだ。
剣の腕では総司が誰かに遅れを取るとは思わない。
けれど命の遣り取りである以上、どこに不可抗力が落ちているかなど
誰にも判らないのだ。
そんなぎりぎりの場面で総司を守りたいと血の滲むような努力を
してきた自分なのに、結局は何の助けにもなれずにいる。
ここでこうしてただ無為に時を重ね、周囲の気遣いを甘受するばかりの毎日だ。
そんなものを望んだのではないのに。
ただ総司の身を守り、誠を貫く助けをする事だけが自分の望みだったのに。
総司の妻となり子を授かった事に浮かれていた自分が呪わしい。
自由に動けぬこの身が厭わしい。
女子のこの身が憎らしい。
斎藤達に連れられて屯所へ戻り、離れにある自分達の部屋で斎藤に問われたセイが
ぽつりぽつりと語り続ける。
総司や仲間達の仕事を邪魔したいわけではない。
けれど思うようにならぬ自分の身が疎ましいのだ、と。
「だからといって、こんな深夜に一人で出て行く必要がどこにあると言うんだ?」
先程から感じていた部屋の外の気配が一人分増した事を察知して、斎藤が問う。
本来なら戻ったセイを副長室に呼びつけて、厳しく問い質すつもりだった土方が
斎藤から山口に託した伝言を聞いてそれを控える代わりに、部屋の外で
事情を聞いていたのは知っている。
おそらく増えたもう一人は総司だろう。
あの状況で隊務に戻っていったところで一番隊の面々や藤堂が承知するはずもなく、
きっと無理矢理屯所へと戻らされたのだと察する。
短くも無い期間を隊で同志として働き、己の身勝手を強く戒める事を知っているはずの
セイらしくもない今夜の行動を、誰もが気遣っているのだ。
原因を知りたくないはずもないだろう。
それを聞き出すのがセイの兄代わりと自負している自分の勤めだと、
再び斎藤が口を開く。
「日もおかずに身二つになろうというのに、夜の川風などで身体を冷やして
腹の子に何かあったらどうする気だ?」
「・・・・・・・・・せん・・・」
微かな声がセイの唇から零れた。
「・・・何だ?」
あまりに小さな声を聞き取れなかった斎藤が問い返した瞬間、
セイの表情が一変した。
「ややなど、いりませんっ! 私が欲しかったのは、そんなものじゃないっ!
剣を握って先生の盾になる事だけを望んでいたのに、こんな事は望んで
なんか無かった! いらないっ! 欲しくなんかないっ! ややなどっ!」
感情が昂ぶりすぎているせいか、ブルブルと身体を震わせながら叫ぶセイを
唖然と見つめていた斎藤がその細い肩に手をかけた。
「落ち着け! 神谷っ!」
強く噛み締められた唇が今にも血を滲ませそうだ。
「いらないっ! どんどん自分じゃなくなる身体など・・・。先生のお役に
立てなくなる身体などっ! いらないっ! いらないっ! いらないっ!!」
「神谷っ! いいから、落ち着くんだ」
「やだっ! 嫌ですっ!」
興奮のせいか、その瞳の焦点が合わなくなっているようで斎藤に焦りが生じた。
自分の手には負えないと、セイの心にいるはずの真実の兄の加護を願いながら
強くその名を呼びかける。
「セイ! 落ち着け!」
ふ、とセイの身体の震えが止まり、ぼんやりと斎藤を見上げてくる。
けれどその視線は男の身体を通した向こう側を見つめていた。
「兄上・・・怖い、怖いのです・・・。何も出来ぬまま、また大切な人を失う事が・・・。
そんな事にならぬよう、大切な人を守れるように剣の腕を磨いたはずなのに・・・。
私の身体に命が宿っている事も、それを間もなく生み出す事も怖いのです。
兄上・・・あにうえぇ・・・怖い・・・怖いよぉ・・・」
大きな瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちてゆく。
ただ一人の惚れた男を失うかもしれないという恐怖と、出産に対する恐れが
相乗したようにセイの心を食い荒らしていた事を、ここに到って斎藤も理解した。
恐らくそれは室外で話を聞いていた二人も同様だったのだろう。
怯えて精神の均衡を崩しかけたセイを包めるのは一人だけだとばかりに、
スラリと開いた障子の向こうから土方に突き飛ばされて総司が転がり込んできた。
「セイ・・・」
総司がセイの元にいざりより、その腕に泣きじゃくる小さな体を包み込もうとした。
だが、その一瞬前にセイの体が苦しげに縮こまった。
「セイ?」
「・・・い、痛い・・・いたっ、痛いっ・・・」
はっはっ、と短く息を吐き出しながらセイが大きな腹部を抱え込んでいる。
男達が慌しく視線を交し合う。
「セイ? 痛いって、生まれそうなんですかっ?」
総司がセイの体を抱き起こそうとしながら慌てたように訊ねるが、
セイは目を閉じたまま苦しげに腹を抱えこんでいるばかりだ。
「誰かっ! 産婆と松本法眼を呼べっ!」
土方の大音声に深夜の屯所にざわめきが広がっていく。
男達にとって長い長い1日が始まろうとしていた。
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